阪神淡路大震災の日のこと

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shimanto40
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阪神淡路大震災の日のこと

今日でちょうど20年になる。阪神淡路大震災から。
世間ではすっかり過去の災害のようになっているけど、20年経つと言われることで、当事者としては過去の出来事ではなく、現在進行形の出来事なんだと改めて実感している。節目の年にあたり、当時の自分のことを改めて思い出しながら記録しておきたいと思う。

当時は浪人として予備校に通いながら大学受験を目指して最後の追い込みをかけていた頃だった。前日に高熱を出して注射で無理やり熱を下げて受けたセンター試験が終わって、これから私大入試が控えている、そんな時だった。

1995年1月17日の朝、ベットの中で突然目が覚めた。

その直後に爆弾が破裂したような大きな音がして、大きな揺れが部屋を襲った。最初何が起こっているのか良く理解できなかった。部屋のロールカーテンをひいていたので、窓から外が見えず、本当に戦争が起こって爆弾でも落とされてるんじゃないかと真剣に思ったりもした。それからようやく地震だと気付いた。後に色々話を見たり聞いたりしたところ、不思議と揺れる直前に目が覚めた人は結構いたようだ。

横からガラスの入った本棚がこちらに向かって倒れてきた。偶然ベットと本棚の間に置いてあった平たい衣裳ケースがつっかえ棒的に棚を支えてくれたため、頭の上に落ちてくる途中で止まってくれた。そのおかげで衝撃で割れたガラスは頭の上には降り注がず、頭のある場所のすぐ手前に降り注いだ。

驚いて上半身を起こしてベットに座る形になったが、さっきまで頭のあったところに、当時愛用していた大きなラジカセが落ちてきた。

咄嗟に動けたのはそこまでで、後は揺れの為に全く動けなかった。

揺れが長い。家が壊れるんじゃないかと不安になる。

それでもまだ揺れは終わらない。机の上の物も床に引っくり返り、部屋の入り口の扉は本棚で塞がれてしまってる。

ようやく揺れが小さくなってきた。下手したら2回死んでたかもしれないことに漸く気付く。揺れが収まった。カーテンを開けるのが怖い。外がグチャグチャになってたらどうしようと不安になる。

意を決してカーテンを開ける。特に景色は変わっていなかった。隣に家も普通に建っていた。爆弾が落ちたのではなさそうだ。部屋の外から“みんな大丈夫か”と父親が大声を上げて確認する声が聞こえた。“行くまで動くな”とも言ってたように思う。そんな父の言うことは聞かず、ガラスだけは踏まないように気をつけながら椅子と机の上を渡り歩き、無理やり部屋の扉をこじ開けて廊下まで出た。

そこから記憶が少し飛んでてあまり思い出せない。
次の記憶は1階に降りてみんな台所に集まったところだ。お皿などの食器が結構散乱してて大変な状態になっていた。テレビはつかない。ラジオをつけると地震で落ちてきた何かに頭を打った人がいたというような軽い情報が流れていただけだったし、近所は外から見る限りでは特に大きな被害はないようだったので、揺れは大きかったけど大した被害はなかったのかなと思っていた。

何時頃だったか忘れたけど、午前中にやっとテレビが映るようになった。最初に映った映像は、どこかの町から一本の煙が上がっている映像だった。“こういうときに必ずどこかで火事をおこしちゃうところがあるよね”っていうくらいの感じだった。

段々と流れてくる映像が多くなってくる。火の手の数が増えていく。火事がみるみる内に広がっていく。阪神高速が倒れている。高速道路から落ちそうなバスが映っている。三ノ宮の街が壊滅している。通っていた予備校の隣のビルが真横に倒れている。ようやく事の重大さに家中の皆がじわじわと気付ていく。

食料を確保しないといけないと近所の生協に走った。たくさんの人が集まっていた。何か買って手にもって帰った記憶があるが定かではない。強烈に覚えているのは自販機だ。自販機の飲み物は軒並み売り切れになっていたが、その自販機の何故かHOTに入っていた炭酸のビン入りレモン飲料だけが売れ残っていた。“なんでこれだけ誰も買わへんねん!”“何でHOTにこの飲み物が入っとんねん!”とダブルで突っ込みを入れて大笑いしてた。笑わずにはいられなかった。もちろん買って帰った。

電気・ガス・水道すべて大丈夫だったので安心していたが、夕方ころから水道の水が少しずつ出なくなり、完全に止まってしまった。まさかの時間差攻撃だ。

余震は大きいものから小さいものまで頻繁に起こっていた。夜は家族全員が2階の同じ部屋で寝るようになった。何かあった時に安心なのと、家が潰れても押しつぶされるリスクが少なくなるからだ。揺れが起こるたびにみんな体が強張る。(このクセは今でも抜けない。必要以上に反応してしまう。)

確か2日目には自衛隊が水の配給に来てくれるようになった。最初は配給車1台だけだったので長蛇の列に対して全く量が足らず手に入らなかった。それから持ってきてくれる水の量が増えて、1世帯1日1回くらいのペースで配給してもらえていたと思う。

小学校がプールの水を排水用に開放してくれたのは大きかった。バケツで何回も汲みにいってバスタブに貯めて大切に使う。トイレの排水は今考えても重要だ。開放を即断してくれた小学校には本当に感謝したい。毎日水汲みに通った。

唯一近所にあった老人施設の水道が生きていて、ここも開放してくれた。当然のように長蛇の列になる。行列に並んでプラスティック製の衣裳ケースを持っていって水を満載にして持って帰った。

住んでいた地域では、自衛隊が初めて来てくれた日以外は、水に関する大きな混乱はなかったと思う。行列の中に混じって文句を言ったり騒いだりしてた人は少なからずいたが、協力しあう精神があったのか整然としていたと記憶している。

その後一週間くらいで水道が復旧した。最初ちょろちょろっと茶色い水が出始めて、徐々にきれいな水が出始めた。水が出ることに気付いたときは嬉しくて大声で家族に伝えまくった。水が普通に家に出るということがどんなに素晴らしいことなのか、当たり前にあるものの素晴らしさが身に染みて分かった瞬間だった。

あの時ほどお風呂が嬉しかった時はないだろう。確かまだ水がでない近所の方も呼んでお風呂に入ってもらっていたと思う。

水汲みをする必要がなくなったので受験勉強を再開する。英単語帳の1ページ目に載っていた単語の意味が分からなくなっていたときは戦慄が走ったものだ。

山麓バイパスの話や、町の様子を見に行った時のこと、受験の時の話、下宿を決めたときの話、マスコミのことなど、色々と話は尽きないのだが、少なくとも自分が体験した震災としての話はこんなところだ。

自分の周りでは幸い、被害の大きかった地域の方に比べたら本当申し訳ないくらいに被害が少なかった。少なくとも友人には死者はいなかった。受験勉強も継続でき、さらに受験もできた。妙な話だが交通機関が不通になったが為に、絶対にダメと言われていた下宿をして、一人暮らしをすることもできた。でもあの地震の恐ろしさは今も脅威として体に染みついている。

観音開きの箪笥が倒れてきてその中にすっぽりはまって九死に一生を得たとか、生き埋めになったけど助け出されたとか、そんな人の話も後から聞いた。

紙一重で生き残った命。震災から20年経ち、自分の家庭を持ち、仕事を通して社会に貢献できるようにもなった。大きなことを為す力はまだ持っていないけれど、少なくとも家族や手の届く範囲の人たちを幸せにすることができるように努力しようと改めて思う。

取り留めのない駄文になり申し訳ありません。



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